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2010/06/18

「ひかりへの考察」

宇宙は光で出来ている。

こういっても言い過ぎではありません。

「真空」とは何も無い場所。それが私たちの常識ですが、現代物理学がいう真空はもっと不思議な場所です。

真空はそこに存在する物質を取り去ることによって得られます。

E=MC二乗というアインシュタインの有名な方程式があります。物質=エネルギーということです。では、ある場所から物質を取り去れば、エネルギーはゼロになるのか?ならないのです。「真空」には物質が何もなくてもエネルギーがあるのです。そのエネルギーは常に物質と反物質に姿を変え、対消滅をおこし、光になります。無の空間は絶えず創造に沸き立っています。そして、光を生んでいます。

これを仏教風に空即是色、色即是空と言い換えてもそんなに間違いはないでしょう。

それでは私たちの心に眼を転じてみましょう。

古代ギリシャの哲学者プラトンの有名な考えに「洞窟の比喩」というのがあります。私たちは洞窟の中に暮らしていて、私たちが現実として認識しているのは、外から差し込む光が洞窟の壁におとす影を見ているのだというのです。真実の存在は影を落とす実在、イデアだというのです。

仏教には中観という思想があります。すべてのものが「空」という性質を持っているのだと言います。チベット密教はこの「中観」思想を基礎にしています。

そして、「空」とは純粋な光だと言います。純粋な光においてはあれとこれやあなたと私の区別はありません。

また、同じく仏教において「唯識」という思想があります。私たちの心は八つの識で出来ていて、その識が煩悩を形作るのだというのです。煩悩のフィルターを通して、私たちは自分たちの欲望にゆがんだ世界を見るので、普通の人々は本当の世界を見ることが出来ないと言います。識を造るエネルギーはどこから来るのかというと、心の奥の奥にある「無明」からそのエネルギーが放射されているらしいのです。

煩悩の曇りを取り去った、真実の世界の姿を「真如」といいます。サンスクリット語の意味は「あるがまま」ということで、これも光に満ちた姿のようです。

このように光を希求するということは、心のフィルターでゆがんだ世界の真実の姿を見たいと思う私たちの心の働きのようです。芸術とは本来私たちが潜在的に持っている、そういった心の働きを解放する営みなのではないでしょうか。

ここで、興味深いのはライティングのアートは闇の中でこそ、可視化出来ると言うことです。

昼間は、太陽の強い光(真実の光といいかえていいかも)に世界は覆われています。私たちはこの強い光を直視できません。

ライティングアートは無明の闇のなかに明かりをともすことです。

煩悩、欲望、不安などなどが眼をさましうごめき始める闇の世界に、明かりをともすこと。それが芸術ならば、私たちはこの皮肉な関係を大切に取り扱わなければならないのでしょう。

いつか太陽の様な強い真実の光を直視できる、あるいは空そのものの純粋な光を見る訓練としてこういったアートの営みはあるのかもしれません。そして、純粋な光体験は「死」という形ですべての人に与えられていると、多くの宗教が伝えているのですから。

現代科学の指し示すことも同様です。地球に降り注いだ光が形をかえ、食物連鎖のようなエネルギーの流れの中で私たちの存在があり、やがて、再び光(赤外線)として宇宙に還ってゆくのです。

私達はひかりなのです。

( shinzo_N )

第5回ひかり祭りより引用